「機関銃をあびせた後に、バンドエイドを貼ってやってなんになる」
映画「地獄の黙示録」より
最近、こちらの漫画を読む機会があったのですが
この話の中に
「脱走兵」というエピソードが出てくるのですが、驚きました。
最近
「我が家にやってきた脱走兵」というドキュメンタリー番組を観たばかりだったからです。
40年前に終結したベトナム戦争では米軍から数万単位の脱走兵がでました。
その脱走兵を支援した日本の市民団体と脱走兵がどのような人生をたどったか、静かに追った番組でした。
漫画のストーリーはこの時の出来事を元にしていました。
現実に脱走兵を匿った市民団体は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)。漫画では「べ由連」となっていましたけど。
結構、現実とオーバーラップさせていましたが、真正面から「ベトナム戦争」は描いていませんでした。
これ程、「善悪」がはっきりした戦争だというのに、終わった戦争だというのに、米軍を非難できる器が日本にはまるでないのだな~と思いました。
それでも、私の子供時代には「反戦争映画」として「ベトナム戦争」を描いたすぐれた映画などがたくさん上映されていました(今では考えらえないね)
代表的なのがコッポラ監督の
「地獄の黙示録」私は映画「地獄の黙示録」は子供の頃に観て、強烈な印象を受けました。
それまで鑑賞していた戦争映画というのは、敵と味方がいて、作戦をどう遂行するか、という映画ばかりだったように思います。
しかし、この映画は
「戦争という狂気」「人間がいかに残酷になれるか」と現実を痛烈にえぐりとってい映像化していた映画でした。あまりに強烈すぎて、再度、鑑賞するという勇気がいまだにもていないでいる映画です。
まだ、未鑑賞の方はぜひ、みてほしいと思います。
この映画は「ベトナム戦争について」の映画ではなく、「ベトナム戦争そのもの」です。
この映画の出来事は、実際にベトナム戦争中にあった出来事、あった人物がモデルになっており、それゆえに
米軍の協力を一切拒否された映画なのです。コッポラ監督が何度も協力を願い出たにも関わらず(仕方なくコッポラ監督はフィリピンで撮影した)
エンドクレジットに「米軍全面協力」としっかり出てくる戦争推奨映画「トップガン」とは対照的です(←私的には最低最悪な映画)
ある程度「ベトナム戦争」を理解したうえで鑑賞するほうがいいと思います。
こちらの本がお薦めです。
↓
「解読 地獄の黙示録」著者:立花隆上記の言葉は映画の中での台詞ですが「戦争を始める大国の偽善」がよく理解できる言葉だと思いました。
「機関銃をあびせた後に、バンドエイドを貼ってやってなんになる」先日も、米軍はアフガニスタンで「国境なき医師団」の病院を空爆しました。
オバマ大統領は謝罪を表明し、賠償金を払うと言ったそうですが、それこそ
「機関銃を浴びせた後のバンドエイド」ではないでしょうか?
そして、バンドエイドをはってやった行為を
「罪悪感」をぬぐいさる為に利用する。日本もよくやってますよね。
他のアジアの国々を侵略し、大勢の市民を虐殺し、領土を破壊しつくして、取り返しのつかない傷跡をのこしておきながら、復興支援とぬかして見舞金を送る(ODAとかね)
お前達は日本が支援してやったからここまでこれたんだ日本が支配したから発展できたんだバンドエイドを貼ってやったんだから感謝しろよそんな日本人の言葉を聞くたびに、同じ日本人として吐き気がするのです。
「ベトナム戦争の経緯」を「解読 地獄の黙示録」著者:立花隆
より書きだしておきます。
今、アメリカがイラクやアフガニスタンでやっていることは、この時とほぼ同じです。隠し方が上手くなっただけ。
メディアを操るようになったからね…
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「解読 地獄の黙示録」著者:立花隆↓アメリカのベトナムへのコミットはアイゼンハワー時代から始まる。1954年に、ディエンビエンフーが陥落し、フランスがインドシナから手を引いた(ジュネーブ協定)その直後から、フランスに肩代わりする形でアメリカの介入が始まる。フランス軍が撤退した後に、アメリカが軍事援助顧問団を派遣して、南ベトナム政府軍の訓練にあたるのが始まりだが、その時の顧問団はたったの300人である。ベトナムへのコミット化が本格化するのは1961年ケネディ大統領の時代からである。ケネディは表の顧問団を増員しただけでなく、秘密裏に400人の特殊部隊を北ベトナムに潜入させ、各種の破壊工作、秘密工作などを展開する隠密作戦を開始する。ジョンソンは副大統領として、南ベトナムを訪問し、ベトナム問題を担当するようになる(ベトナム問題はアメリカの中心問題ではなかったので、副大統領が担当した)まず、ヘリ部隊を送り込み、アメリカの軍部はヘリと装甲車があれば一年半で全南ベトナムを平定できる、と豪語していた。61年の駐南ベトナム米軍は3200人ベトコンは手強く、米軍は次々に増強しなければならなくなり、翌62年には米軍は11200人になり、南ベトナム援助軍司令部という軍司令部も設けた。軍事援助額は6億ドルに。1963年、アメリカはベトナムに本格介入し始める。腐敗したゴ・ジンジェム政権では国がもたない、と判断したアメリカはCIAの工作で軍部の反ジェム派を支援してクーデターを起こさせる。これ以後、南ベトナムは軍事的にも政治的にもアメリカのコントロール下におかれる。この年の11月、ケネディ大統領が暗殺され、ジョンソンが大統領に昇格。1964年アメリカは北爆を開始。(トンキン湾事件をでっちあげ、報復攻撃という形で)ベトナム戦争は南ベトナム政府による代理戦争からアメリカ自身の戦争になる。この年に米軍2万3千人に。大統領選でジョンソン大勝。1965年、ベトナム戦争本格化。北爆を休みなく続けるローリング・サンダー作戦を開始。海兵隊を派遣し、米軍の直接戦闘行動開始。グァム島、沖縄などの基地から、大型爆撃機B52が渡洋爆撃。米軍だけでなく、韓国軍、オーストラリア派遣軍、ニュージーランド派遣軍を参加させ、国際戦争になる。この年、米軍は増派を繰り返し、一気に18万4千人に。1966年、ベトナム戦争は拡大を続け、この年米軍38万5千人に。アメリカのベトナム戦費、103億ドル。1967年、戦費はさらに増えて、219億ドルに。米国家予算の65%が国防費になる。北爆は史上最高レベルとなり、投下爆弾量は太平洋戦争の三倍になる。巨額の戦費の為、米国の金準備高が激減しはじめ、ドル経済防衛の政策がとられ始める。米国内でベトナム反戦運動が激化。50万人規模の反戦デモがニューヨークとサンフランシスコで。南ベトナムの米軍48万5千人に。1968年、1月30日、ベトコンのテト(旧正月)攻勢。サイゴンの米大使館が直接攻撃を受け、一日間占拠される。アメリカの面目丸つぶれ。それだけでなく、主要都市すべて(34の省都)と64に地方自治体の重要拠点が占拠され、ベトコンのもつ軍事能力の大きさが誰の目にも明らかとなる。ベトコンの勢力はすでに弱ってきており、ベトナムにおける完全勝利はちかい、という米軍部のこれまでの楽観的報告が、まるっきり根拠がなく、これだけ兵力を投じても勝てる見込みなどまるでない事が客観的にも明らかとなり、アメリカ政府にも、国民にも大きなショックを与えた。軍事的にはベトコンの作戦は失敗に終わったが、政治的には大勝利をおさめた。このあと、アメリカ国内で厭戦気分が急激に広がっていく。三月末、過去二十年間に政府のトップレベルの要職をつとめた人々(国防長官・軍司令官など)十数人がワシントンに集められ、現情勢を検討し、今後の国のあり方を議論した。メンバーのほとんどはタカ派として知られた人々だったが、ベトナム戦争に対する態度を一変させ、大統領に戦争終結にむけて動くことを勧告したとされる。その後、ジョンソン大統領は特別記者会見で北爆を停止し、北ベトナムに和平交渉を開始することを提案するとともに、次期大統領選に出馬しないことを言明した。この年の末、ベトナムの米軍は54万人をこえていた。が、これがピークで翌69年8月から米軍の段階的撤兵がはじまった。しかし、戦死者はすでに3万人をこえ、朝鮮戦争の死者をオーバーしていた。ニクソン政権はすぐにベトナム戦争を終結させず、4年にわかって北爆再開、ラオス侵攻、カンボジア侵攻、など悪あがきを続けた。しかし、死傷者が30万人をこえ、国内の反戦運動が百万人単位の人を集めるようになり、ソンミ虐殺事件の報道、ペンタゴン秘密文書のスッパ抜きなど、戦争支持者は激減し、財政破たんで、金・ドルの交換停止に追い込まれるなどして、ついに1973年1月、和平協定に調印した(75年米軍総引き揚げ。サイゴン陥落)***
79年のカンヌ映画祭における記者会見でコッポラが語った有名な言葉に
「これはベトナム戦争についての映画ではありません。これがベトナム戦争です。ベトナム戦争とはこんな戦争だったんです。それは本当にクレージーな戦争でした」
が、ある。