「明日の自由を守る若手弁護士の会」さんが広げている「憲法カフェ」を開催することになりました。
「憲法カフェ」大阪府の和泉市北部リージョンセンター(2階会議室)7/19の午後1:30~4:00小谷成美弁護士さんがお話に来てくれます。参加費、予約不要・1:30~憲法と法案などのお話(質問をまじえつつ)・3:00~10分程休憩・3:10~お茶をしながらトークタイムお近くにお住まいで時間的に参加可能ならば参加して下さるとありがたいです。
「憲法カフェ」は日本の憲法が危ない!と危機感をもった弁護士さんが全国的に開催している「気軽な勉強会」みたいなものです。
多くのメディアにも取り上げられています。
気軽に開催、参加できますので「どんなのだろう?」と思われている方もぜひ、いらして欲しい、と思います。
よろしくお願い致します。
また、私なりに「日本国憲法誕生の流れ」を簡単にまとめてみました。
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◆1945年7月21日 ポツダム宣言ポツダム宣言には、日本が軍国主義から民主主義国家になることを求めている。それは「日本国民を欺瞞に陥れた」軍国主義の権力者たちの「勢力を永久に取り除く」為。8月14日。日本はそれを受託し、国際的に民主主義国家に生まれ変わることを約束した。8月15日 終戦の勅令8月30日 GHQマッカーサー来日この時の日本の首相は幣原喜重郎。彼はマッカーサーと天皇についての会話の中で「日本の戦争の放棄は、世界から失ってしまった信頼を得る為に必要であり、それが日本の唯一の誇りになるのではないか」と話している。10月11日大日本帝国憲法を改正して、民主主義的な憲法をつくるように言われる。松本丞治(国務相)を中心とする「憲法問題調査委員会」が設置される。12月24日民間の有識者7人が結成した「憲法研究会」が作った「憲法草案」が発表される。メンバーは戦時中、言論統制により弾圧された知識人達(高野岩三郎、森戸辰男、杉森孝次郎、馬場恒吾、鈴木安蔵、室伏高信、岩淵辰雄)国民主権、平和主義、表現の自由、男女平等など、今の日本の憲法の特徴が入っていた。◆1946年1月1日天皇の人間宣言。1月4日松本案(日本政府の憲法草案)まとまる。2月3日日本政府案が大日本帝国憲法とあまり変わらない、との情報にマッカーサーは「GHQ案」作成を支持。草案作成の中心となった人物は・ラウエル陸軍中佐・ケーディス陸軍大佐・ハッシー海軍中佐作成にあたり、世界中の民主的な憲法を参考にした。その中には「憲法研究会」の作った「憲法草案」もあった。ラウエル陸軍中佐はこれを読んで「とても感心した。これで憲法を作れると思った」とのちに回想。この憲法草案が参考になった事を話している。GHQメンバー24人の中で日本語の通訳もしていた女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、男女平等の理念を組み込んだ。彼女は幼い頃、日本に住んでおり、虐げられる女性の姿を見ていたため「女性の権利」強く希望していた。2月8日日本政府案、GHQに提出。2月13日GHQは「日本政府案はとても民主主義の憲法とは言えない」として拒否。代わりにGHQ案を政府に提出。日本政府はGHQ案を日本的に訳す作業をすることになる。その時、出来るだけ大日本帝国憲法に近づけるような表現にしている。GHQ案の国民主権を表わす「Sovereignty」(主権)の英語をわざと「至高」と表現し、国民主権をあいまいな形にしようとした。しかし、後に極東委員会の要求に日本の憲法がどれほど満たしているか調べている最中に気づかれ、「国民主権」としっかり明記するよう戻された。(極東委員会は日本が民主主義国家に生まれ変わる憲法の条件として「国民主権」を一番にあげた。GHQが憲法作成を急がせた理由は「極東委員会における天皇の戦争責任追及を逃れる為」)3月6日日本政府は「憲法改正草案要綱」を発表。4月10日衆議院選挙(戦後初の選挙)6月20日国会に憲法改正案が提出され、審議される。「メスをいれられなかった部分はない」が80%~90%は採用。選挙で選ばれた議員の中には、「憲法研究会」メンバーの森戸辰男も衆議院議員になっていた。彼の提案により、25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」が追加される。その他の修正箇所。労働の権利と義務を書き込む。9条の「前項の目的を達する為」が追加。義務教育を六年間に限定する部分を削除。これが現在の6、3の十二年間の義務教育に繋がる。10月7日憲法改正案を可決。11月3日日本国憲法公布。当時の日本国民はこの憲法をどうとらえたか。「支持85% 反対15%」GHQの憲法草案に関わったのは24人のアメリカ人。なかでもドイツ系ユダヤ人女性ペアテ・シロタの存在は大きい。『日本人に何か大層なことを教えようとしていると思ったことは一度もない、と回想してる。彼女も周囲のアメリカ人も、より抑圧の少ない世界。それは大多数の日本人が望んでいたにも関わらず、日本の指導者からは得られなかったものである。を、創造する手助けをしているのだと強く信じていたのである。』著者ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」より
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